学校で教えてくれない音楽

「学校で教えてくれない音楽」という本を読みました。音楽家の大友良英著(岩波新書)。

学校の音楽の時間が苦手だったそうです。

 

日本の学校教育は、例えば「ドレミファソラシド」を絶対的なものとして有無を言わさず教えているけれど、世界中には「ドレミファソラシド」でできていない音楽もたくさんあります。また、バッハや、ベートーヴェン、西洋のクラシック音楽だけでは欠けているものがあるということで、例えばビートルズや、日本民謡を教科書に取り入れたりしてきた音楽の授業。著者はそれも違う、と言っていて、つまり既にある素敵な音楽を学習する、という順番ではなくて、まず音を出す、そこから考えて音楽にしていくことはできないか、と問いかけていました。

 

どうして日本の学校音楽は西洋の音楽なのか、と疑問に思っている人も多いかもしれません。

日本人は、椅子に座って、パンを食べて、コーヒーを飲んだり、輸入したものを取り入れて暮らしていて、音楽についても、日本民謡の音階の勉強をしないで「ドレミファ」を習っています。

何百年も経てきた西洋のクラシック音楽が美しいことは確かなので、私も日本や他の民族音楽を学ばないで、他の音楽と比べたわけではなくピアノを弾いてきました。習い事としては楽しくて、長続きしましたが、たしかに学校の音楽の授業が楽しいと思えたことはあまりありませんでした。

 

「学校で教えてくれない音楽」の中のいろいろな取り組みは楽しくて、音楽をつくるということはどういうことなのかと考えさせられました。

楽器を演奏するスキルがなくても楽しめることや、そうした場が音楽の原点なのだと思いました。既に完成された音楽を追いかけるのではなく、自分の力で音楽を発見するというのは、今の学校教育の中の音楽にも、ピアノの指導においても足りないところです。そのことを忘れないようにしたいと思います。